創業者山田三吉と山田正司

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創業者山田三吉と山田正司

創業者山田三吉

山田三吉翁(壮年期)

山田三吉の生い立ちを記します。山田三吉は静岡県引佐郡東浜名村で黒柳家の三男として生まれ、半次と名づけられました。父の久佐衛門は早世したので一家の苦労は大きかったでしょう。半次は22歳の年、山田家の養子となり、ノブと結婚しました。その後、養父の山田三吉の没後、襲名して山田三吉となり、家督を相続しました。

時を経て、日露戦争の直後、山田屋は満州(現在の中国東北)と直接結ばれました。三吉の長男、三平の満州行きです。雑貨、食料の商いに始まり、ガラス、自転車なども取り扱いました。後には遼東ホテルを開設、伊藤博文公爵が一泊されたこともありました。その後、遼東ホテルは満州において信頼を得る有数のホテルの一つとなっていきました。
そして明治40年、日露戦争後、満州の大豆輸出は激増し、麻袋の需要拡大を洞察した三吉は山田屋の大連出張所を開設しました。同年、三吉の後継者となる山田正司が横浜市尾上町で生まれました。

山田三吉の壮年期と関東大震災

佐久米の撚糸工場内部

大正時代は山田三吉の壮年期でした。大正5年、合資会社「山田三吉商店」に改組し、大正10年には、三吉は郷里の佐久米に撚糸工場を建てました。この撚糸工場は、貧しい半農半漁の町であった佐久米になにか産業を興したいという以前からの考えと祖先への奉仕の思いからでした。

燃える開港記念横浜会館 『横浜みやげ』横浜開港資料館蔵

当時、横浜の山田屋本店は娘婿の治平が主に経営にあたっていました。この時代は世界も大きく揺れ動いていました。第一次世界大戦後、景気反動の波は日本にも押し寄せ、不況が本格化していきます。大正12年には関東大震災が起き、横浜にも甚大な被害をもたらしました。発表された数字によれば被害を受けたのは宅地面積の80%、死亡・行方不明・重軽傷者は市の人口の約7.5%にも及びました。横浜の本店にも非常な打撃を受けました。そのような中、山田商店の復興は迅速な方でした。郷里から古家を発動機船にて運び仮店舗を設営、震災後1ヶ月半という早さで仮店舗で営業開始ができ、その間、店舗の再建も順調に進められていきました。
その後、三吉は山田商店の震災の復興が落ち着いたところで横浜本店の経営を娘婿の治平にまかせて第一線を退く形をとっていました。ところが、治平が病で急死するという不幸が起きてしまったのです。

山田三吉から山田正司の経営へ

立教大学卒業当時の山田正司

治平が他界したその頃、山田正司は大学在学中でもあり、三吉が横浜本店の経営指揮を再びとることとなりました。
正司が山田商店の仕事に関わるのは、昭和4年、立教大学卒業の年からです。大学在学中、正司にはブラジルに行く希望がありました。「伯父である山田三平の満州における事業家としての成功の影響があったと思う」と後に正司は語っています。しかし、立教大学を卒業する前、正司は三吉に説得され、店を継ぐ決意をしたのです。

大連の遼東ホテル本館(昭和3年当時)

翌年、大連の遼東ホテルの新築落成の時期でもあり、三吉は大連へ渡り、ホテルの工事完成に力を注ぎました。滞在はそれから約2年続きました。昭和5年のこの頃は世界恐慌の嵐が吹き荒れており、山田商店でも麻袋の新たな販路開拓を迫られる時期でもありました。正司は上海、漢口、天津に着目し、直接中国との輸出取引を可能にし、その途を拓きました。さらにはそれまで山田商店ではほとんどなかった営業活動に力をいれる体制を整え、三吉の留守を預かっていた間、十分な役目を果たしたのでした。
昭和7年11月、山田三吉は82歳で他界しました。この時、山田商店は正司の采配で万全な体制となっていました。

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