戦時下の山田商店
戦災による本店の焼失
時代は戦時統制時代に入ってきました。昭和13年には統制経済は全面的かつ徹底的になっていきました。麻袋業界に戦時統制が及ぶのはやや遅く、昭和15年頃からです。戦時体制がさらに強化された頃で、日本輸移出麻袋商業組合が創立、その後も統制が進み、麻袋業者の自由な商業活動はできなくなりました。
そして、戦争末期の昭和19年以後になると、東京、横浜は度重なる空襲で、半ば仮死状態にありました。山田商店は昭和20年に戦災に遭い、尾上町本店は明治・大正・昭和と、ほぼ40年にわたったその歴史を閉じ、戦後の新しい舞台に移ることになるのです。
被災後の山田商店
大空襲で被災後の山田商店を、山田正司は後にこう語っています。
「戦争は終わったが、仕事の再開は簡単にはいかなかった。西区石崎町(現在の戸部)に100坪余の土地を借り、事務所、材料倉庫と従業員宿舎用に仮屋を建てた。既に閉鎖した佐久米の撚糸工場の一部を解体して移したものである。ここから従業員は西横浜駅前にある共同作業場へ通った。・・昭和22年に共同作業場を出ると、高島工場を建てた・・この頃から麻袋需要はようやく上向きになってきた・・敗戦後、援助物資や輸入食料の輸送用に麻袋需要が大きくなったのがちょうどこの辺りからです」
この当時、敗戦前後の昭和19年から21年にかけては、国民生活の食・住の面の窮乏は生命を脅かしていました。横浜の市民生活ももちろん極度に悪化していました。保土ヶ谷のゴルフ場に水田や畑作りが始まったりもしました。特に食糧難は深刻で、配給品では不足なうえに、しばしば滞りもします。そんな中、横浜市民が足繁く通ったのは国鉄や私鉄駅前などにできるヤミ市でした。
山田商店の復興
合資会社山田商店は戦後昭和23年に株式会社山田商店に改組しました。山田商店としては麻袋部門は昭和21〜25年は高収益を上げた時期といえます。敗戦後の日本が焼け跡ヤミ市の時代から復興・再建へと立ち上がっていくとき、援助物資、輸入食糧輸送(包装)用としての麻袋の需要は大きかったのです。
昭和26年の全麻連(全国麻袋工業共同組合連合会)設立以後、いくつか輸入食料用の麻袋調達の必要上、調達会社が作られました。全麻連の麻袋業者はこれら調達会社と提携し、輸入食料の国内輸送用の麻袋調達に寄与したのです。
山田商店の戦後はこうした輸入食料用麻袋扱いから出発しました。昭和20年代も麻袋が営業の中心でした。山田正司は昭和50年まで全麻連の常務理事をつとめ、戦後の麻袋業界においても指導的役割を果たしました。
麻袋商・山田商店に経営多角化の動きが出てくるのは昭和30年代の初めからになります。